讀書感想『批評とポストモダン』柄谷行人著

柄谷行人が「批評とポストモダン」を書き出した時代、思想界隈ではニューアカといふムーブメントが起きてゐた。大學生の多くが現代思想と呼ばれる。ニューアカ系の學者が日本に輸入した哲學書を讀んでゐた。柄谷行人もその現代思想を輸入した學者として數へられてゐた。柄谷自身そのやうな称号にうんざりしてゐた。批評とポストモダンの冒頭でかう語る。「新しい事態には新しい概念が必要であるという事は確かである。しかし、それは本当に新しい事態なのだろうかと、時々考えてしまう」柄谷はニューアカに片足を突つ込みながら、ニューアカそれ自體に非常に懐疑的であつた。懐疑的であつた理由は日本に於いてポストモダンがさういふ時代になつたといふ理由で流通した訳ではなくたゞの流行だつたからである。現に元々日本ではポストモダンの時代に於いて脱構築されるべき西洋型近代の時代はなかつた。近代がない以上ポストモダンの時代自體有り得ないだらう。私が不運だとおもふのはかういふ事をすぐに察知する柄谷の洞察力である。柄谷が單なる翻訳者であれば日本に於ける近代化の問題を考へずにすんだであらう。しかしかれは單なる翻訳者ではなく批評家であつた。日本の批評に於いて近代化出來ない日本は非常に重要な問題である。とくにこの問題に積極的にコミットした批評家として福田恆存江藤淳吉本隆明が上げられる。この中で私は福田恆存に注目したい。福田恆存は近代化といふものを反近代性の中からでてくると考へた。柄谷も福田の近代感には影響を受けてゐたらしく現に福田の論文を引用してゐる。私は福田の近代感にこそ批評といふものがあるやうに思ふ。