讀書感想『批評とポストモダン』柄谷行人著
夏目漱石試論Ⅰ
日本人の國民作家と云へば夏目漱石で誰も異論はないだらう。私は江藤淳や柄谷行人のやうな力量はないのでこの偉大なる國民作家の全體を見る事は不可能である。しかし批評がもし独立した藝術形式ならば私が此処で夏目漱石の全體を語る事が出来なくとも、それが夏目漱石の本質からかけ離れてゐてもそれは批評なのではないか。夏目漱石を綺麗に答案用紙に書くことよりも夏目漱石の言葉の実存を狂的に書き上げる事こそ批評ではないのか。事實、夏目漱石と云ふ明治期に活躍した藝術家は翻訳調の模倣小説を批判し、漢文調の日本文學の確立した。
☆
漱石は日本と云ふ土地に日本文學の作成を可能にし、日本人の藝術感を産み出した。 漱石は産み出したと同時に殺した人でもある。漱石が殺したのは日本人の近代化の夢である。問題はこの偉大なる業績を當時の文壇は氣づく事はなかつた。誰よりも西洋を考へた者は誰よりも日本近代の悲哀を感じた。我々がもしこのやうに漱石と近代の悲哀を考へた時、注意しなければならない事が一つある。それは漱石を思想家として見てはゐけないと云ふ事だ。漱石は國民作家である。國民作家であるからこそ文學の立場で日本近代の悲哀と云ふ難題に立ち向かつたのだ。漱石の思想的問題をあまりに注視する事で漱石の実存からかけ離れる結果になる。漱石は作家であつて思想家ではない。これは漱石自身も注意した事である。當時の作家が西洋の思想にはまり日本人の言葉、振る舞いをなくす事に批判的であつた。坊つちやんの行動原理は純粋な正義であり、山嵐のやうな弱者救済の良心でもなく赤シャツのごとき屁理屈でもない。こゝろの先生の自殺も罪悪感などではない。先生は明治期の清潔な倫理観である。 事實、漱石が腹を病みながら考へた難題は漱石個人の問題に止まらない。明治期の日本人の問題であり、我々の問題でもあるのだ。漱石が國民作家である所以は漱石の考へた問題が漱石個人の問題ではなく日本人の問題にリンクするからである
大衆の反逆
民主主義に於いて衆愚批判はつきものである。オルテガの名著「大衆の反逆」は衆愚批判の著とされる。確かにオルテガは大衆を批判した。しかしオルテガの云ふ處の大衆は世間一般の大衆と微妙に意味が違ふ。世間ではオルテガは普通の庶民に對して罵倒し知識人を擁護したとされる。實は逆でオルテガが罵倒したのはある種の知識人であり、むしろ常識ある庶民を擁護した程である。オルテガが批判した知識人は所謂進歩派である。第一次大戰以後、知識人は急激に左傾化し、空虚な理想主義に走つた。彼等は多數派にゐる自分に安心する、しかも自分たちとは違ふ少數派を罵倒する。現代日本に於いてこの種の知識人は大勢ゐる。オルテガの大衆の議論は現代日本に於いて有効である。
問題意識
西洋近代の始まりは反近代から始まつたといへる。西洋近代の模倣として始まつた日本の近代化はその反近代性を見ず、ただ前近代の批判から始まつた。明治の知識人は近代の表層部分だけ理解し、近代の根底にある反近代性を自覚しなかつた。漱石は日本の近代化を「現代日本の開化は皮相上滑り」といふ。漱石は西洋の根底に反近代性がある事を本質的に理解したのだ。戦後に於いては西洋の反近代性は自覚されず、盲目に戰前日本の反近代性が批判された。日本の諸問題の根底は反近代の無自覚にある。